第3章
すべてが、あまりにも急だった。水野家の人間は誰ひとり、状況を飲み込めないまま立ち尽くしていた。
慌てて階段を駆け下りてきた水野源は、神崎斗真が紬を抱き上げて連れ去る瞬間を見ていない。玄関先で、神崎雅志が車に乗り込もうとしているのを見つけると、反射的に走り寄った。
「いやぁ、神崎社長!」
水野源は満面の笑みを貼りつける。
「どんな風が吹いてこちらへ? お越しいただき、水野家は光栄の至りでございます!」
その声に釣られ、知らせを受けた水野篤志、水野麻子、使用人たちがぞろぞろと出てきた。全員が必要以上に愛想笑いを浮かべ、腰が九十度になりそうな勢いで頭を下げる。
神崎雅志――神崎グループ現社長。
清原市四大家の一角、神崎家。誰もが媚びたい相手だ。
だが、こういう底の知れない名門は、会いたいと思って会える存在ではない。神崎家はめったに表舞台に姿を現さず、その実態は謎に包まれていた、外の者が知っているのは「八人の息子がいる」という噂くらいで、顔を見たことがある者はほとんどいない。
たまに経済ニュースのトップに出る神崎雅志だけは、水野家も顔を知っていた。
水野篤志が身を乗り出す。
「神崎社長、どうぞ中へ! 外は凍える寒さです。よろしければ、うちで――」
「そうそう、温かいお茶でも!」水野源も必死に笑う。
伝説級の人物を前に、彼らは今にも“貢ぎ物”でも差し出しそうな勢いだった。
水野家の危機は、水野家にとって滅亡に等しい。
だが神崎雅志が一言口を利けば、すべてがひっくり返る。もしかしたら清原市トップ10に――そんな甘い夢まで見ていた。
神崎雅志は無表情のまま、鋭い目で水野源を見据えた。
これが、紬の父親か。
余計な感情は一切ない。氷のような声が落ちる。
「水野家……いい家だな」
それだけ言い残し、車に乗り込むと、そのまま去っていった。
水野家の者たちは呆然と立ち尽くす。胸の奥がざわつき、得体の知れない不安が膨らむ。
水野麻子が首を傾げた。
「『いい家』って……褒めてくださったのよね? じゃあ、助けてくれるってこと?」
水野篤志は眉間に皺を刻む。
「褒めてる顔じゃなかったぞ」
水野源が使用人を呼びつけ、さっき何が起きたのかを問いただした。
神崎家の人間が総出で来て、紬を連れて行ったこと。
黒服の男が上着を脱いで紬を抱きしめ、「斗真おじさんだ」と名乗ったこと。
それを聞いた瞬間、水野源の頭が真っ白になった。
神崎家には八人の息子と一人の娘がいる。娘は病弱で、世間に姿を見せたことがない――。
つまり。
四年前、自分が拾って連れ帰ったあの女は、神崎家が命より大事にしていた唯一の娘……神崎実里だったのか。
気づいた水野家は、血を吐くほど後悔した。
水野麻子の唇が震える。
「神崎家の子だなんて……早く、早く紬を迎えに……!」
分かっていたら、雪の上で跪かせるどころか、姫様みたいに持ち上げていたはずだ。
水野源も、紬を殴った記憶が背筋を冷やし、苛立ち混じりに怒鳴った。
「迎えにって、どうやってだ! 今さら俺たちが行って、戻ってくると思うのか!」
水野篤志は眉を寄せ、考え込むように言う。
「だが、俺たちは紬の祖父母で、お前は父親だ。血の繋がりは否定できん。神崎家がどれだけ怒っても、それは事実だ。それに……心愛が流産したのも事実だろう」
彼らは“教育”しただけ。
紬がわがままで乱暴な子に育たないように――そういう体裁を、彼らは信じ込んでいた。
水野源が怒りすぎて、少し手が重くなっただけ。
ほんの少しだけ――。
水野家の者たちは、説明さえすれば何とかなると思い込んだ。
説明さえできれば、輝かしい未来が待っている――と。
神崎家は紬を連れて清原市へ戻らず、最寄りの病院へ直行した。
南市で一番の病院。
普段は静まり返っている最上階のVIPフロアが、今は張り詰めた空気に包まれている。
誰も大声を出さない。機械のピッ、ピッ、ピッという音と、医師と看護師の足音だけが、張り詰めた空気を切り裂いた。
神崎吉弥は杖をつきながら、苛立ちを抑えきれずに歩き回る。
「まだ出てこんのか!」
神崎雅志が時間を確認し、低く言った。
「父さん、座って」
紬は搬送されるなり救急救命室へ。神崎斗真も中へ入ったまま、まだ出てこない。
救急救命室の中。
神崎斗真は、全身が青紫に変わった紬を見て、手が震えた。
ひどい凍傷で最も怖いのは、骨折を伴っていることだ。 検査の結果――殴打による骨折があった。腕、すね、肋骨にまで。
寒さによる組織の損傷も全身に及び、ひどい箇所は切除が必要になる。
三、四歳の子が受ける仕打ちではない。
神崎斗真は目を赤くし、紬の耳元へ身を寄せて囁いた。
「紬……斗真おじさんだ。聞こえるか」
「聞こえるなら……頑張れ。耐えてくれ……」
紬は目を閉じたまま。
不思議なことに、身体がひどく軽い。ぬくもりに包まれて、初めて「気持ちいい」と思えた。
周囲は静かで、ただひとつの声だけが耳元で繰り返される。
「紬……紬……つむき……」
「見えるか? 聞こえるか?」
誰……?
紬は必死に目を開けようとするが、開かない。
返事をしたいのに、声も出ない。
手術は三時間に及び、紬はようやく危険を脱した。医師たちは口を揃えて言った。
「奇跡です」
病室へ運ばれた紬の身体には、管がいくつも繋がっている。
神崎斗真は冷えた顔で検査報告書を神崎雅志へ渡した。神崎家の者たちは目を通し、怒りを押し殺す。
神崎吉弥が歯を食いしばる。
「よくも……三歳半の子に、ここまで……!」
神崎雅志はすでに水野家の裏まで洗っていた。
「水野家の製品は密輸の疑いで調査対象だ。危機に陥って、最近は神崎家に縋ろうとしていた」
神崎吉弥が冷笑する。
「助けるどころか、俺が潰してやらんと奴らは仏にでも祈ってろ」
怒りで杖が折れそうだった。
神崎雅志は淡々と言う。
「安心して。すぐ終わる」
沈黙のあと、神崎吉弥が耐えきれずに問うた。
「……実里は……実里は、どうして……」
神崎雅志は黙ったまま、答えない。
清原市と南市は二千キロ。
四年前、重い病気で記憶を失った神崎実里が、なぜか南市へ流れ着き、水野源に拾われた。
その後、出産で危篤になり、奇跡的に持ち堪えたが――二年後に病死。残されたのは紬ひとり。
何よりも大事な妹は、見知らぬ土地で、身内にも知られないまま、ひっそりと命を落とした。
神崎雅志は拳を握り締める。怒りが深いほど、表情は冷たくなる。
神崎吉弥は、それ以上聞けなかった。聞けば、自分が壊れる。
神崎斗真が低く問う。
「どうして紬を殴った」
神崎雅志の声が落ちる。
「水野源の妻、水野心愛が階段から落ちて流産した。水野源は紬が突き落としたと思い込んでいる」
神崎家の者たちは眉をひそめた。
そこへ秘書が駆け込んでくる。
「神崎社長、水野家の者が来ています。孫に会わせろと――」
神崎雅志は冷たく笑った。
「このフロアの外の廊下の暖房を切れ。窓を開けろ。――待たせておけ」
水野源は水野篤志、水野麻子とともに、最上階の外廊下で待たされた。
VIPフロアはセキュリティがあり、彼らは外側から入れない。
秘書は「待っていてください」とだけ言い残し、姿を消した。
水野麻子が不満をぶつける。
「どうして入れてくれないのよ! 孫なのよ? 祖父母と父親を締め出すなんて――」
水野源は苛立ちを噛み殺した。
「待て」
自分が紬をあそこまで殴ったのだ。怒られて当然――頭では分かっている。
だが、すぐに異変が起きた。
廊下が、どんどん冷えていく。
待たされている場所は窓際で、風がごうごう吹き込み、身体の芯まで凍える。三人は思わず肩をすくめ、歯を鳴らした。
「何よこの寒さ……人がいられる場所じゃないわ!」水野麻子が真っ先に悲鳴を上げる。
水野篤志も眉を寄せた。
「水野源、誰かに聞け。どうなってる」
神崎家が怒っているのは分かる。少し待たせるのも分かる。
だが、三十分以上――この寒さで?
誰が耐えられる。
